もちろん、授賞式自体は全般的にかなり楽しいものだった。まるで結婚式のような豪勢な食事にお酒。こんなパーティーに参加したことなど、(今思ったら)生まれてこのかたなかったのではないか。そして周囲にいるのは世界中のクリエイターたち。こんな光栄なこともない。モチベーションが高まった。再びこの場に来たいと感じたし、さらには「もっと有名で大きな映画祭へ」という気持ちも新しく芽生えた。とはいえ、次々に受賞が行われ、みんな英語で見事なスピーチをしてゆく。オオ、と衝撃を受けるとともに、頭の中では「もし受賞したらどうしよう。」などと動揺した。何の準備もしてないので、英語スピーチが頭の中で飛び交う(それは杞憂となった)。
ノミネート作品は前面にあるスクリーンに映像が流れたりする。当然自分の作品(「4月のバカ」「Sがいる夏、Kのいた秋」二作品が各部門にノミネートされてる)も流れて、それを会場のみんなが見てる。緊張するとともに、こんな喜ばしい気持ちになったことはなかった。日本の映画祭にも参加したことはあるが、もっと庶民的な感じ。日本では基本的には進行者が舞台にいて、受賞者が前に呼ばれて挨拶したりするくらいだ(日本でこのような式典があるのはおそらく日本アカデミー賞くらいではないか)。このパーティー形式というのがスタンダードなのかは分からない(アメリカのアカデミー賞はチャニーズシアターで行われるイベント形式だ)。授賞式のスピーチも派手だったり、どこか欧米文化を感じた。日本なら厳かに慇懃と受賞を受けるものだろうけど、みんな喜び爆発という感じ(それがまたアウェーを感じさせる)。
自分は留学時にニューヨークで映画作りを始めたので、英語を使ってみんなと話したりするのは、原点回帰というかすごく楽しかった。学生時代にも英語は勉強してたけど、中味は空っぽに近くて(語れる内容がない)、何をしたらいいのか分からなかった。それで英語から映画にシフトしていった。英語は手段であって、英語を使って「何か」をしなくては意味がないと感じたのだ。そして二十年が過ぎ、今は(英語は堪能ではないけれど)映画を作っている。たとえインディーズ映画でも、やはりこれは文化だし人々と関われる何かであると感じた。日本にいると自家中毒というか、内輪の(嫌な)空気の中で謙遜して生きていかなくてはならない(それが美徳でもあるし当然のことだ)。その中で映画作りをしてて、どこか違和感だったり息苦しさを感じてきた。それは商業の現場であっても同じで、日本人がかたまるとそういう集団主義の閉塞感が生まれがちだ(上下関係、勤勉主義、微細主義)。それは日本のよさの裏返しでもあるのだけれど。
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